北原百代(きたはらももよ)さんは、小池百合子都知事のカイロ留学時代にカイロで共に暮らした元同居人です。
その告白が掲載された『女帝 小池百合子』は、第52回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、2020年の都知事選挙に影響を与えました。
昨年末に『女帝 小池百合子』が文庫化された際、北原百代さんは実名での証言を行いました。
この記事では、北原百代さんと小池百合子都知事との関わりを経歴にまとめてみます。
Contents
小池百合子カイロ大学学歴詐称問題
小池百合子知事が自称してきた「エジプト・カイロ大学『首席』卒業」という輝かしい学歴が、ますます怪しくなってきました。
女性キャスターとして、バブル期に台頭し、その知名度で政界に進出して閣僚を歴任。
その後、自ら地域政党「都民ファーストの会」を立ち上げ、都知事も2期目を全うしようという「女性政治家のロールモデル」の晩年が、汚辱にまみれようとしています。
この告発の証人とされるのが、小池百合子都知事のカイロ留学時代にカイロで共に暮らした元同居人の北原百代さんなのです。
以下、この北原百代さん証言記事より、小池百合子都知事との関わりを経歴にまとめます。
小池百合子はカイロ大学2年に親のコネで編入!
小池百合子さんとの北原百代さんの同居時期は・・
1972年5月から1973年2月 および 1976年1月から12月
- 1972年の春:初めて会ったのは、エジプト・カイロ市内のペンショ ンでした。小池百合子さんは19歳で、私は30歳。
- 小池百合子は私が滞在していたペンションに、商社マンの Aさんに連れられてやってきました。
- カイロ・アメリカン大学に通っている小池さんだと紹介されました。
- 最初に同居した時、19歳の小池百合子さんは、ほとんどアラ ビア語を話せなかった。
- でも口癖のように「いいの。だって、お父さんが、ドクター・ハーテムにカイロ大学に入れるように頼んでくれているから。それを待っていればいいの」と言って、特に勉強をしている様子はありませんでした。※ドクター・ハーテムは小池百合子都知事が在籍していたカイロ大学時代の人物で、当時の同居人の証言によると、小池氏がカイロ大学への編入に関してつながりがあったと言われています。
- 1973年10月:カイロ大学に編入。※小池知事本人は、1972年10月入学としている。
- 決定的な嘘は、カイロ大学の入学時期です。小池さんは著書『振り袖、ピラミッドを登る』で「1972年10月入学」としているが北原さんは「事実と違う」としている。
- 私がアラビア語学学校に行くのに一緒に行くと言って、一緒に通っていたのが1972年10月です。
- 1972年10月、小池さんは、アラビア語学学校初級コースに北原さんと通っていたのです。
小池百合子の公式では「カイロ1972年10月に1年生に入学と発表」
実際は「1973年コネで2年生編入」
- カイロ大学は1年生から2年生に上がるのが一番難しいと言われるので、2年生から編入できることにみんな驚いていました。
- 同居していたが、小池百合子がアラビア語を学ぶ人に見えませんでした。
- アラビア語は全く話さなかったけど一回だけテーブルに開かれたノートにアラビア語が書いてあるのを見たが初歩的なアラビア語でした。
小池の結婚で同居解消後、離婚で再び同居!進級できず卒業も無理!
- 1972年11月29日母に送った手紙:「小池さんは、来年1973年10月からカイロ大学に編入できることになったのでアパートでお赤飯の缶詰でお祝いしました」とあります。
- 1973年2月:2年生に編入した直後に、語学学校で出会った日本人と結婚することになり、1973年2月から別居するようになり、最初の同居生活が終わりました。
- 1975年末:3年後、再び北原さんの前に現れ、「離婚したから試験勉強したいから一緒に暮らしたい」と言って戻ってきました。その時は、一生懸命試験勉強していました。
- 1976年5月末から始まった進級試験:試験は1ヵ月にも及び、7月上旬に発表されるんですが、落第でした。
- 落ち込み、塞ぎ込み、『これからどうしよう』と思い悩んでいました。
- 追試を受けることはできなかったし、学部変更は1年からまたやらないといけない。
- もちろん生活費は必要ですので、そこで日本航空の現地スタッフとして働き始めたんです
最終学年ではないということはこの時点で4年生になっていない。本来なら2年生から入って3年経っているので、5年生、1年留年ぐらいのはずが、4年生にもなっていないというのは、3年生にもなっていないかもしれないということか。ちょうど新婚の時期に当たるので、3年生に上がれなかったかもしれない。
大学をあきらめJALにアルバイト!
- 試験に不合格だった後、学校に行かずに、1976年7月初めにJALのカイロ支店でアルバイトを始めました。
- そして、1976年8月に日本人を含む飛行機がカイロでハイジャックされる事件が発生しました。
- 小池さんは「日航カイロ駐在員」という肩書きで日本の新聞に登場し、インタビューに応じていました。
- カイロ大学の学生としてではなく、「日航の駐在員」として取材に応じていたことに、北原さんは驚きました。
カイロ大新卒唯一の日本人女性と書かれていた!
- その直後、1976年10月にサダト大統領夫人が日本を訪れることになりました。
- 父の命令で急いで日本に帰国し、小池さんは、大統領夫人に接近しました。
- 大統領夫人が日本に到着する前の2週間、小池さんは、マスコミに自己を売り込みました。
- 11月に小池さんは、カイロに戻り、新聞記事でカイロ大学卒業と書かれているのを見て驚きました。
- そこには、カイロ大学卒業の日本人女性と書かれていました。
- これにより、小池百合子のカイロ大学卒業の経歴が確立されました。
- 小池さんは、カイロに戻って荷解きをしながら新聞に載った話を嬉しそうにしていたので、北原さんは、「カイロ大卒業になっているけれど、そういうことにしたの?」と聞いたら、「うん」と言いました。
小池さんは、翌12月に日本に帰国することになり、「帰ったら本を書くからと、そこにはあなたのことを書かない。書くとバレちゃうからごめんね」と北原さんは言われたそうです。
北原百代さんとは?プロフィール!
北原百代さんは、もちろん一般の方ですので、プロフィールなどは公開されていません。
以下は、週刊文春をはじめ日刊ゲンダイなどのこれまでの記事からわかる情報を記します。
- 名 前:北原百代(きたはらももよ)
- 年 齢:82歳 ※2024年現在
- 小池氏との出会い時期:1972年の春 小池百合子19歳、北原百代30歳
- 小池氏と出会った場所:エジプト・カイロ市内のペンショ ン
- 告発の理由:「今のあなたの立場では、これはやはり許されな いことだと思ったのです。 そして事実を知りながら、黙っている私もまた、許されないはずだ、と。あなたは日本の法律に違反することをして、今の地位を築きました。また権力者で居続けることによって、 秘密を守り続けています。私は事実を知る者としての義務を果たしたいと思った のです。あなたに恨みがあるわけじゃない。今の地位か ら引きずり下ろしたくて、語るわけじゃない。このまま黙って死んだのでは、私には悔いが残る。そう思い、この手紙をしたためました。」
- 実名を出した理由:「旧ジャニーズ事務所の性加害問題では、被害者の方が実名告発することで社会問題となった。私も実名で告発しなくれば、この問題もウヤムヤになってしまうと感じたのです」