【光る君へ】紫式部と藤原道長に子供が?史実では子供の父親は誰?
(出典 newsimg.oricon.co.jp)

大河ドラマ『光る君へ』が話題沸騰中ですが、視聴者の間で特に注目されているのが、紫式部(まひろ)と藤原道長の関係です。

最近のエピソードで、まひろが子供を産んだことが描かれましたが、その父親は誰なのでしょうか?

歴史的な背景を探りながら、真相に迫ります。

史実に基づく藤原道長と紫式部の関係

紫式部と藤原道長の関係については、多くの史料や研究が存在します。

道長は、平安時代の権力者であり、紫式部はその時代を代表する作家です。

二人の関係については、いくつかの説がありますが、恋愛関係にあったという明確な証拠はありません。

道長が紫式部の部屋を訪れたというエピソードもありますが、これは道長が紫式部をからかっただけという見方もあります。

歴史学者の角田文衞氏は、紫式部が藤原道長の妻妾であった可能性を指摘しています。

彼の見解によれば、道長が紫式部を妻妾とし、彼女を新皇子に仕える腹心の官女にしようと意図したのは自然な推測であるとしています。

角田氏は、道長が他の妻妾たちと同様に、紫式部にも好意を寄せていたと考えています

一方で、国際日本文化研究センターの栗本一宏教授は、紫式部と道長の関係が恋愛関係であったという説を否定しています。

栗本氏は、紫式部と道長が恋愛関係にあったという証拠は乏しく、むしろフィクションやドラマの影響が強いと指摘しています。

彼は、紫式部と道長の関係は主に雇用関係であり、道長が紫式部を尊敬し、彼女の才能を高く評価していたことが主な要因であると述べています

『紫式部日記』には、紫式部が道長を「お姿のなんと立派なこと」「素晴らしい」と称賛する記述があります。

これにより、紫式部が道長に対して好意的な感情を抱いていたことは確かですが、それが恋愛感情にまで発展したかどうかは不明です

ドラマ『光る君へ』での描写

ドラマ『光る君へ』では、まひろ(紫式部)と道長が親密な関係にあるように描かれています。

第26回のエピソードでは、まひろが子供を授かり、「この子は私一人で育てます」と宣言するシーンがありました

この描写が視聴者の間で大きな議論を呼びました。

しかし、これはドラマの脚色であり、史実に基づいているわけではありません。

実際のところ、紫式部の日記や他の史料には、道長との間に子供がいたという記述は見当たりません。

ドラマは歴史的事実に基づきながらも、視聴者の興味を引くためにフィクションを織り交ぜています。

紫式部の子供の父親は誰か?

一部の視聴者や研究者の間では、紫式部と藤原道長の間に子供がいたのではないかという説もありますが、これはドラマのフィクションに過ぎません。

歴史的な記録や文献からは、紫式部と道長の間に子供がいたという確たる証拠は見つかっていません

紫式部の娘である大弐三位(賢子)の父親は、史実に基づいて藤原宣孝であることが確認されています。

宣孝は、紫式部の夫であり、彼らの結婚は年齢差があったものの、互いに愛情を持っていたとされています。宣孝は従って、賢子が道長の子であるという説は、ドラマのフィクションに過ぎません。

大弐三位は長保元年(999年)頃に生まれ、宣孝は、その後、長保三年(1001年)に亡くなり、賢子はその後、母である紫式部や祖父の藤原為時の元で育てられました。

そのため、賢子が道長の子であるという説は、史実とは異なるドラマの脚色に過ぎません。

まとめ

紫式部(まひろ)の子供の父親は藤原宣孝であり、藤原道長ではありません。

藤原道長と紫式部の関係については、多くの歴史的解釈がありますが、確実な証拠はありません。

大河ドラマ『光る君へ』は、視聴者の興味を引くために脚色を加えていますが、史実とドラマの違いを理解しながら楽しむことが重要です。

歴史の解釈には幅広さがあり、異なる視点から考察することで、より深い理解が得られるでしょう。

FAM8

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