1948年に制定された旧優生保護法(Eugenic Protection Law)は、日本の歴史において非常に暗い章を刻んでいます。
この法律は、遺伝性疾患やハンセン病、精神障害を持つ人々に対して不妊手術や人工妊娠中絶を強制的に行うことを合法化しました。
これにより、約8万4千人が被害を受けました。
今回は、この法律がどのようにして成立し、誰が関与したのか、そしてその影響について詳しく見ていきます。
Contents
1. 旧優生保護法の成立と背景
旧優生保護法は、1948年に日本で制定された法律で、優生思想に基づく政策を正当化するためのものでした。
この法律は、戦前の「国民優生法」やナチス・ドイツの「遺伝病子孫防止法」をモデルにしており、遺伝性疾患を持つ人々に対する差別的な規定を含んでいました。
旧優生保護法は、戦後の人口過剰問題や闇堕胎の増加を背景に制定されました。
当時の日本政府は、優生思想に基づいて「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的としていました。
この法律は、母性の生命健康を保護することも目的として掲げられていましたが、その実態は非常に非人道的で差別的なものでした。
2. 旧優生保護法の内容と運用
旧優生保護法の主な目的は、「不良な子孫の出生を防ぐ」ことでした。
これにより、知的障害や精神疾患、遺伝性疾患を持つとされる人々に対して強制的な不妊手術が行われました。
また、この法律は学校教育にも影響を与え、障害や病気を持つ人々が子供を持つべきでないという考え方が広く教えられました 。
優生手術とその対象
旧優生保護法の下で行われた優生手術は、知的障害、精神病、遺伝性疾患を持つと診断された人々が対象となりました。
これらの人々に対して、本人や家族の同意なく強制的に不妊手術が行われました。
また、手術の決定は各地の「優生保護委員会」によって行われ、その委員会は医師や行政官などから構成されていました 。
学校教育での影響
旧優生保護法の思想は、学校教育を通じて広く浸透しました。
1950年代から1970年代にかけて、教科書には「障害や病気を持つ人は子供を持つべきではない」とする内容が記載され、優生思想が強化されました。
これにより、障害者に対する社会的偏見や差別がさらに助長されました。
実態と影響
優生保護法の施行期間中、約25,000人が強制不妊手術を受けたとされています。
しかし、この数字は公式な記録に基づくものであり、実際の被害者数はさらに多いと考えられています。
これにより、多くの人々が子供を持つ権利を奪われ、深刻な精神的・身体的苦痛を受けました。
3. 法案を推進した人は誰なのか?
法案の提出者と推進者
旧優生保護法の立法過程において、特に注目すべき人物がいます。
福田昌子衆議院議員と谷口弥三郎参議院議員は、この法律の提出者として知られています。
また、加藤シヅエと太田典礼も重要な役割を果たしました。
彼らは、優生的観点からの受胎調節や優生手術の積極的実施を推進しました。
また、当時の厚生省公衆衛生局長や社会局保護課長も、この法律の施行を支援し、強制的な不妊手術の実施を可能にしました。
福田昌子衆議院議員
福田昌子衆議院議員は、福岡県出身の産婦人科医であり、戦後の日本で女性国会議員として活躍しました。
彼女は、東京女子医専(現東京女子医大)を卒業後、九州帝国大学(現九州大学)を経て、福岡や大阪の病院で産婦人科医として勤務しました。
福田議員は、戦後の人口増加と母体保護の観点から、中絶合法化を訴えました。
彼女は、優生思想に基づく政策を強く支持し、旧優生保護法の成立を後押ししました。
福田議員のリーダーシップの下、旧優生保護法は迅速に立法され、多くの人々に影響を与えました。
谷口弥三郎参議院議員
谷口弥三郎参議院議員は、熊本選挙区から選出された参議院議員であり、熊本医専(現熊本大学医学部)の産婦人科教授を務めました。
彼は、後に日本医師会長や久留米大学長も務めることになる医学界の重鎮でした。
谷口議員は、先天性の遺伝病者の出生を抑制することが国民の急速な増加を防ぐ上で必要であると強調し、優生手術の実施を支援しました。
彼は、法律の立案と推進に積極的に関与し、優生手術の実施を支援しました。
谷口議員の影響力により、法律は広く受け入れられ、施行されました。
加藤シヅエ議員
加藤シヅエは、女性運動の先駆者であり、社会党の議員として旧優生保護法の成立に関与しました。
彼女は、産児制限普及同盟を設立し、女性の権利と母体保護の観点から中絶合法化を推進しました。
加藤シヅエ議員の活動は、女性の健康と権利を守るためのものでしたが、優生思想に基づく政策の一環として旧優生保護法の成立に寄与しました。
太田典礼議員
太田典礼議員もまた、社会党の議員として旧優生保護法の成立に関与しました。
彼は、優生思想に基づく政策を支持し、法律の制定を推進しました。
太田典礼議員は、福田昌子議員や加藤シヅエ議員と共に、旧優生保護法の立案と推進に重要な役割を果たしました。
推進した政治家とその意図
旧優生保護法を推進した政治家たちの意図は、多くの場合、戦後の社会的・経済的問題に対処するためでした。
戦後の日本は、戦争からの復員者や過剰人口の問題に直面しており、これらの問題を解決するために優生政策が導入されました。
具体的には、厚生省の高官や政治家たちが、障害者や病気を持つ人々を「不良な遺伝因子」と見なし、これを排除することで「健全な国家」を作り上げようとしました 。
また、優生保護法の推進には、科学者や医師も関与していました。
彼らは、遺伝学や優生学の観点から、特定の遺伝性疾患や障害を持つ人々を排除することが「科学的に正当である」と主張しました。
このような科学的背景が、優生保護法の成立と運用を支えました。
4. 違憲判決と現在の取り組み
1996年に旧優生保護法は「母体保護法」に改正され、優生思想に基づく条文は削除されました。
しかし、被害者への補償や実態調査は長らく行われず、被害を受けた多くの人々が苦しみ続けました。
1997年頃から、一部の被害者が国や自治体に対して謝罪と補償、実態解明を求め始めましたが、当時は「記録が残っていない」「合法だったため」などの理由で応じられませんでした。
裁判の経緯と判決
2018年、宮城県の知的障害がある60代女性の手術記録が見つかったことをきっかけに、旧優生保護法による強制不妊手術が憲法違反であるとして、国に賠償を求める訴訟が初めて仙台地裁で受理されました。
このニュースは全国で大きく報じられ、旧優生保護法の問題が再びクローズアップされるきっかけとなりました。
2022年2月22日、大阪高等裁判所は、旧優生保護法下で行われた強制不妊手術が憲法が保障する自己決定権を侵害したとして、国に賠償を命じる判決を下しました。
この判決は、障害者等に対する差別や偏見を助長した国の責任を明確に指摘し、除斥期間の適用を認めなかったことが画期的とされました。
そして、2024年7月3日、最高裁で旧優生保護法に対して国に賠償を命じる判決が出たのです。
被害者支援の現状
2019年には、国は被害者に対して320万円の一時金を支給する法律を制定しました。
この法律では、旧優生保護法に基づく不妊手術を受けさせられた人だけでなく、身体障害者に対する子宮摘出など、法を逸脱した手術の被害者も対象としています。
しかし、2万5000人以上と考えられる被害者数に対して、申請する人が少なすぎるとの声も上がっています。
その要因として、時間の経過や手術を受けた際の状況が原因とされています。
被害者支援団体や弁護士会は、全国で相談会を開き、被害者の掘り起こしや国に対するさらなる補償を求める活動を続けています。
これにより、少しずつではありますが、被害者への理解と支援が広がりつつあります。
法改正とその後
1996年に旧優生保護法は改正され、母体保護法へと変更されました。
しかし、その影響は完全には解消されておらず、現在でも障害を理由とした差別や偏見が存在します。
例えば、結婚や出産に対する圧力や、福祉的就労の低賃金などが報告されています。
結論
旧優生保護法は、日本の歴史において非常に暗い章を刻んでいます。
この法律の制定と施行に関与した人物や機関は、非人道的な行為を合法化し、多数の人々に深い傷を残しました。
現在では、このような過ちを繰り返さないために、歴史を学び、理解することが重要です。
参考文献
- 衆議院, 「優生保護法」, 1948年7月13日
- 厚生労働省, 「旧優生保護法一時金支給法に係る経緯等」, 2023年
- 参議院, 「第1編 旧優生保護法の立法過程」, 2023年
- 衆議院, 「第3章 旧優生保護法の改正過程」, 2023年
- 日本弁護士連合会, 「旧優生保護法下において実施された優生手術等に関する全面的な被害回復の措置を求める決議」, 2022年
- The Japan Times, 「Japan tries to turn page on eugenics policies, but related ideas persist」, 2023年7月11日
このような歴史を知ることで、私たちは未来に向けてより公正で人道的な社会を築くための教訓を得ることができます。